本田宗一郎ものづくり伝承館|浜松市天竜区

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本田宗一郎ってどんな人?

本田宗一郎とは
  • 本田宗一郎
    (ほんだそういちろう)
    1906-1991
  • 明治39年(1906年)11月17日、浜松市の北部の天竜区山東(旧磐田郡光明村)に本田宗一郎は生まれました。
    幼少期は好奇心のかたまりのような少年だったそうです。
    光明村に初めて自動車がやってくると車の後ろを追いかけ走り回り、浜松市で曲芸飛行ショーがあると聞きつけると20キロ離れた会場まで父親の大きな自転車を三角乗りで駆け付けたといいます。
    宗一郎は、後にいくつもの発明を重ねて、一代で世界的な自動車メーカー『ホンダ』を築き上げた天才エンジニアです。

本田宗一郎の略歴
明治39年(1906年)
11月17日、磐田郡光明村(現 浜松市天竜区)に父(義兵)、母(みか)の長男として誕生(0歳)。
大正3年(1914年)
小学校2年の時、初めて自動車を見る(7歳)。
大正6年(1917年)
5月28日、浜松でアート・スミスの飛行ショーを見る(10歳)。
大正8年(1919年)
光明村立山東尋常小学校卒業(12歳)。
大正11年(1922年)
二俣町立二俣尋常高等小学校卒業。
東京本郷区湯島のアート商会入社(15歳)。
昭和3年(1928年)
4月、浜松にアート商会浜松支店を設立(21歳)。
昭和10年(1935年)
11月20日、磯部さちさんと結婚(28歳)。
昭和12年(1937年)
浜松工等工業学校(現 静岡大学工学部)機械科聴講生となる(30歳)。
昭和14年(1939年)
アート商会浜松支店を譲渡。
東海精機重工業(株)入社、同社取締役社長就任(32歳)。
昭和17年(1942年)
東海精機重工業(株)にトヨタ資本が入り、社長退任し専務取締役就任(35歳)。
昭和20年(1945年)
東海精機重工業(株)の専務取締役退任。
株式を豊田自動織機に売却(38歳)。
昭和21年(1946年)
本田技術研究所設立。(浜松市山下町)所長就任。
昭和23年(1948年)
本田技研工業(株)設立。(浜松市野口町)取締役社長就任。
昭和27年(1952年)
藍綬褒章受章。(小型エンジン他各種の機会に関する考案をし、産業界に貢献したため。)
本田技研工業(株)本社を浜松から東京に移転(45歳)。
昭和29年(1954年)
イギリス「マン島T・Tレース」出場宣言(1959年初参加・125CCクラス6位入賞)(47歳)。
昭和48年(1973年)
本田技研工業(株)、社長辞任。藤沢武夫と共に取締役最高顧問就任。
天竜市名誉市民(第1号)の称号を授与される。
興津漁春につき日本画を始める(66歳)。
昭和56年(1981年)
勲一等瑞宝章受章(科学技術振興、日本自動車産業の発展貢献、行政運営の円滑化に寄与)(74歳)。
平成元年(1989年)
日本人として初めてアメリカ「自動車殿堂」に入る(82歳)。
平成3年(1991年)
8月5日、肝不全のため死去。享年84歳と8ヶ月。
正三位勲一等旭日大綬章を追贈される(84歳)。

資料集

本田宗一郎ものづくり伝承館だより

本田宗一郎ものづくり伝承館でこれまでに発行したものを掲載しております。

本田宗一郎夢未来想造倶楽部 会報
ミュージカル「本田宗一郎物語」 プログラム・チラシ

写真ギャラリー

本田宗一郎生誕記念ミュージカル「本田宗一郎物語」 

平成19年、本田宗一郎生誕100年を記念し、宗一郎の少年時代の数あるエピソードを元に作られたミュージカル「本田宗一郎物語」。
浜松、埼玉、別府、大阪にて公演いたしました。

  • 宗一郎たちのヤンチャぶり、埼玉でも大爆発!

  • 背中の文字はもちろん「HONDA」。メカニックはみんなの憧れ。

  • 大正の子どもを歌う、平成生まれの子どもたち。

  • ニセ物のハンコがバレて大慌て。

  • 初めて見る飛行機は松の木の上。

  • 全身で歌う出演者の心にも『宗一郎魂』がしっかり生きづく。

  • 輝く瞳の先に、子どもたちの夢がある。

  • 「やらまいか!」の心いき、出演者の胸にいつまでも。

本田宗一郎ものづくり伝承館
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〒431-3314 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1112